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お宿「ひさ家」の歴史
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昭和20年代後半~30年代前半

現在のハチ北温泉外湯場所、西村吉雄氏西村志ずゑご夫妻の旧実家。旧姓西山志ずゑは当館2代目田渕誠の妻初枝の叔母にあたります。
歴史写真 但馬牛の歴史は農家で
脈々と育まれてきました 。

歴史写真

スキー場になる前のハチ北(鉢伏山)を中心に手前は瀞川、山奥の高い山が氷ノ山、鉢伏山の南側がハチ高原(養父市)北側がハチ北高原(香美町)です。 ハチ高原(養父市)が策動設置スキー場としては、昭和39年、ハチ北高原が昭和43年12月となりハチ高原が先輩となります。 母方の出身がハチ高原の丹戸にあり、現在の青い鳥の実家、一ノ本ご夫妻に田渕初枝、西村志ずゑさんがお世話になりました。

鉢伏山を望む風景、
まだ索道(リフト)が無い為、(登)山スキー。

歴史写真 "蘇武ヶ岳"の当時の山スキー。
(村岡スキークラブの皆さん)
歴史写真 ゲレンデパーキング周辺
田渕家(ひさ家)田園。
歴史写真 昭和38年、ハチ北の民宿1号『みはらしや』誕生。母方の実家で、ハチ高原の『青い鳥』と姻戚関係にあたります 。
歴史写真 昭和38年、ひさ家の原点、民家に看板をつけての営業。当初の屋号は「寿屋(ことぶきや)」
→「ひさや」→「ひさ家」となります。
お風呂は、五右衛門風呂・・・。
歴史写真 民宿(民家)は100%自給自足の生活。
歴史写真 シーズン以外のお客様はいないのがあたりまえ。たまにこられると注目でした。謙虚な姿勢でした 。
歴史写真 スキーのお客様が少ない時期、男は出稼ぎで造り酒屋へ行くのが通常。
当館先代は左下、中央はお世話になった「ときわや」の田渕常雄さん 。但馬杜氏と言われる人がこの地域には沢山おられました。 能勢、池田、猪名川の酒屋さんにも大変お世話になりました。 スキー場がオープンした当初も池田市役所の皆さんや池田スキークラブ の方がいち早く御出で下さいました。

 

昭和40年前半

歴史写真

ハチ北スキー場開発前、当時の兵庫県知事坂本氏を籠に乗せ、力仕事を受け持った田丸末吉さんとその横で引率をする、西村吉雄氏と当館初代田渕槙。
昭和43年ハチ北アクセスの主幹道大谷道路起工式に、谷洋一町長と2代目田渕誠、婦人会の皆さん、手前なかや旅館田野みさこさん、真中はやよい旅館西谷たけこさん。
歴史写真 測量時の記念写真、
右からきくや旅館田辺菊蔵さん、おちや旅館西村吉雄さん、当館初代田渕槙、橋本屋西谷亀忠さん、わさびや旅館田辺鎭雄さん、石井重信さん、福永正さん、三浦雄一郎さん、本館おもとや西谷徹さん、西谷勉さん、やよい旅館西谷範雄さん、開発観光五箇さん。

 

昭和43年12月ひさやオープン!>

歴史写真 当時の区長(田渕槙)、開発(リフト会社)、
町長(谷洋一氏)の開発契約書の抜粋。

ハチハチ北スキー場の土地は当社も含む地権者ですが、索道は最初から現在の、りそな銀行(当時の大和銀行)の子会社です。
その当時から不動産の会社であり大阪府池田の伏尾台を開発中の会社が現在の鉢伏開発観光株式会社 となったのです。
歴史写真 「ロッジハチ北」の工事。
(パノラマコース近辺)
歴史写真 「中央ゲレンデ」
当時は「第2線」と呼ばれました。
歴史写真 初期頃の雪山開き風景、
神主(初代 田渕槙)、 奥左「みはらしや」初代(母方の父 西山岩夫)右隣先代 田渕誠。。
歴史写真 昭和45年、ひさや別館の新築風景、
初代が大工工事に加わっていました 。
歴史写真 谷洋一町長から上田賢一町長へ

谷町長はその後兵庫県会議員から衆議院議員となられ、郷土 の為に尽されました。

昭和45年3月、冒険家只野直孝氏の雪上結婚式が行われました。
媒酌人は当時の兵庫県知事坂本氏と三浦雄一郎夫人朋子さんでした。

只野さんは70年に三浦雄一郎氏とエベレストスキー滑降に成功し、ハチ北の三浦雄一郎&スノードルフィンスキー学校設立当初より活躍もされ、84年5月にヒマラヤのカンチェンジュンガからテイクオフハンググライダーによる高度世界記録を樹立、植村直己さんが、マッキンリーで遭難をした同年3ヵ月後の事です。

その後パラグライダーを日本に持ち込み、現在は日本パラグライダー協会会長として、息子さんの只野正一朗さんと共に日本の第一人者として、現在は丹波市青垣町で活躍されています。
歴史写真 昭和45年 2代目田渕誠の冒険!?
初代も賛同し、温泉ボーリングに着手!!

温泉が出なければ莫大な借金を
負うことに・・・。
歴史写真 露天風呂横の川、
現在とはかなり異なる風景 。

 

昭和40年後半

歴史写真 2年の年月をかけ、秋の収穫を祝う祭りの日、温泉は湧出しました。
三朝温泉とほぼ同成分のラジウム温泉で先代によりハチ北温泉「登竜泉」と命名されました。
写真では伝えきれない喜びの表情です。
歴史写真 兵庫県衛生保健部による温泉の検査風景。
歴史写真 昭和48~49年シーズン、
スキー利用者は10万人に。
(建物右は当時のスノードルフィンスキースクール)
歴史写真 現在のファミリーゲレンデリフト前。
当時は田でした
昭和47年テニスコートに造成、後々ファミリーコースゲレンデ造成に伴い、この地に平成12年レンタルC,Bを新築。
歴史写真 昭和48年、神戸新聞の未井氏所有「ハチ伏山荘」を先代が買収。
改築後、「ひさや別館」原点の建築物 。
歴史写真 右より田渕初枝、田丸さよこさん(民宿のお手伝いでお世話になりました)西山志ずゑさん、きみや旅館西田きみえさん(親子で大変お世話になりました)、ロッチ野間屋田渕とくよさん。

 

昭和50年前半

歴史写真 昭和53年「ひさや別館 新館」地鎮祭。
岡田工務店 岡田社長と(神主)初代田渕槙。
歴史写真 新館建築風景。豪雪地帯工事のため
基礎は相当しっかりとしています 。
歴史写真 鉄骨工事風景 。
歴史写真 新館完成後、日本観光旅館連盟に加入。
当地区では当館が最初。
歴史写真 ひさや前の道、未舗装でした。
歴史写真 創業当初の「ひさや別館」
当時は大型宿泊施設はありませんでした。
歴史写真 ハチ北を守る太田神社の祭り風景、
農村の秋の収穫を祝う祭りは明治時代からの継承事。
歴史写真 秋祭り恒例行事「もちまき」風景
もちに当選番号が記入有、景品は米・酒他。
歴史写真 新館オープン当初時料理。
川魚と山菜が中心
”郷土を生かす”がコンセプト 。
歴史写真 昭和55年大笹地区の道路も遂に舗装
下水道も近辺では群を抜く早さで設置されました。

 

昭和50年後半

歴史写真 高速リフトもなく、リフト待ち30分以上も
しばしばありました。(中央ゲレンデ)
歴史写真 オフのスポーツ合宿や林間学校の受入が増大。
温泉活用とスキー、学生受入の方針が半端な時期もありましたが、時世に助けられた時代でもありました。
歴史写真 昭和59年オフ対策として兎和野高原に
3万坪の土地を購入しグランド建築に着手。
さらに、「うわのビレッジ」 (㈱日本健康の郷所有)と業務提携。広大な敷地にサッカーコート2面のグラウンドと併設した宿舎を利用した スポーツ合宿商品を発売。
現在の「うわのビレッジ」となる。

 

平成~現在

歴史写真 ひさ家合宿センター「うわのヴィレッジ」 宿舎併設のグランド所有。サッカー・アメフト・ラグビーなど、グランド系合宿のお客様にご利用いただいております。
歴史写真
リフトの目の前。アクセスも最高の立地に
スキー・ウェアー、スキー用品レンタル
ショップ SPORTS SHOP HISAYA 
オープン。
歴史写真 お宿ひさ家を約3億円の総工事費をかけて、増改築。
歴史写真 平成4年中央クワッドリフトの新設。
極端なリフト待ちは大幅に減少されました。
その後、各リフトはクワッド化され、送客数は格段に改善されました。
歴史写真 平成2年 露天風呂、お土産ショップ「モー」、「ベコ」旧館の増改築、ほぼ現在の姿となる。

24時間入浴頂ける雪景色の露天風呂はひさ家の看板となり、屋号は「ひさや別館」→「ひさ家」へ変更。
歴史写真 平成11年ニーズの多様化に合わせ個室お食事処「ひさ家亭」を増改築
食事内容も但馬牛、松葉かにを中心とした会席コースに見直しました。
歴史写真 平成12年ハチ北スキー場・ファミリーコース増設、レンタルC,B新設、ワックスサービス、チューニングをはじめ、ビギナーからエキスパートまで本格的なサービスを開始。
歴史写真 お宿「ひさ家」現在の姿です。
昭和38年と創業当時と比べると、ずいぶん変わりました。
歴史写真

ご家族で楽しめるファミリーコースや、レンタルC,Bショップ、ワックスサービス、チューニング、カフェなど、ビギナーからエキスパートご満足いただけるサービスをご用意。

リフトが目の前のカフェで、温かいコーヒーを飲んでほっと一息。

歴史写真  
歴史写真 C&Bショップ(カフェ)前には小さなお子様も楽しめるキッズパークが 。ファミリーゲレンデ゙も目の前です。
歴史写真 ハチ北スキー場には、スキー場開発からご尽力いただきました、三浦雄一郎さんのスキースクール「三浦雄一郎&スノードルフィン」が常設しております。
歴史写真 外湯もお楽しみいただけます。
「ハチ北温泉湯治の郷」

当館3代目ご挨拶

『生い立ちをふりかえり今思うこと』

  当館の歴史は、ハチ北の発展(高度経済成長期)と、ともに歩んできました。
その高度経済成長期にハチ北スキー場開拓の立役者となったのは各旅館の1代目にあたる方々ですがその当時の環境は、農業中心の環境であり、男たちは冬になると雪深い村から、出稼ぎに出て、兼業収入を得る生活環境でした。家族一緒に過ごせる環境を作りたいと村民全員の希望を託し、一致団結して出来たのがハチ北スキー場です。
  当館の初代、田渕槇は当時町議会議員と区長を兼務しながら、地域の皆様と一丸となってスキー場開発に尽力を捧げ奮闘してまいりました。
  2代目の田渕誠と初枝は、現在の場所に大型民宿からハチ北初の日本旅館連盟加盟施設へと発展させ、周辺に先駆けスキー場がある中で、温泉とスキーをセットにすることで、より素晴らしいスキー場に育ってほしいとの思いから、昭和45年に莫大な借金を前提に温泉ボーリングに着手しました。場所は現在のハチ北温泉外湯の隣に当館の土地が有り、掘削を始めました。2年もの月日を経て、秋の収穫を祝う秋祭りの最中に、温泉が湧き出ました、ラジウム20.95療養規格温泉として、山陰の三朝温泉の成分に近い成分とされ、今後のスキー場湯治や里山湯治の構想を描き夢と希望を膨らませ、初代同様、町議会議員と区長を兼務しながら、村民の皆様と共に、旅館の運営には内助の功の協力を得ながら着実に頑張って来ましたが、平成元年、初枝の病気を機に経営を3代目にバトンを渡しました。
  当時は経済バブルの絶頂期で、お客様の接客やサービスにおいて、手違いがあってはあかんと自身に言い聞かせ、良い時に質の投資を行いたいと露天風呂や館内の設備工事に着手しました。
3代目は苦労を知らないから駄目だと世間では言われますが、1代目、2代目が築いた環境があれば、逆にやりよいわけですから、1代2代を支えて下さった、お客様にどのようにすれば今まで以上にご満足をいただける環境を作れるかを考えて現在に至っております。時代も変わりスキー人口が衰退する中で、旅館を廃業する方や、それぞれの職業に転職や町の第三セクター等へ入社する方、環境も様変わりはしましたが、ひさ家は初心を忘れず 1代目の姿勢と最初にお客様を受け入れさせていただいた時の緊張と喜び、感動を持ち続けることが大事であると考えています。
 高度成長期の49年頃のハチ北入場者数10万人突破とありますが、28年度は過去に例のない雪不足で有りながら、8万6千人ものスキーのお客様に来ていただいております。 ピークの24万人からすると半分以下ですが、スキー場規模からすると15万人がベストです。その内7万人が宿泊していただける環境になると地域全体の後継者も育ちます。
ゆっくりとのんびり中高年スキーヤーを筆頭に、若者と調和のとれたゲレンデ景観が理想です。リゾートではなく、里山スキー場の理想スタイルが必要なのです。山の喫茶店でぜんざいや干し柿、その為には宿泊や食事サービスの特徴と魅力づくりが重要です、宿泊施設間の連携やサービスが必要な時代となってきています。 旅館街の無料シャトルカーや、各施設から施設への連携利用や、専門スタッフの連携オペレーションなど、効率面だけでなく、お客様の要望を満たす事の連携が必要と感じております。
  当館も4代目田渕義和に引き継ぐ時代となってまいりました。 今はどこの温泉地へ行っても美味(おい)しい料理に地産地消は当たり前です。
 当館の目指す顧客サービスは、健康になっていただける旅館です。
 当館の低糖居酒屋(心斎橋)明和病院無糖レストラン(西宮市鳴尾)と また、予防医療に熱心な医師との連携もとりながら、先端の予防グルメ、美味しく健康料理を提供させていただく所存でございます。
  今後ともハチ北温泉、ひさ家をどうぞよろしくお願いいたします。
 
3代目館主 田渕和彦
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